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紀ノ川
疎開の記憶
戦況が悪くなってきて、紀ノ川の河川敷に飛行場が出来るとのことで,ここ安楽川村も危険だということになり、昭和20年6月に大阪へ戻る、しかし戻っても大阪市内は危険であり、又、通っていた小学校(国民学校)も被災し閉校になっていたため生駒山ふもとの瓢箪山へ再疎開することになります。