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下関戦争と高杉晋作
画像は高杉晋作(中央)と伊藤博文(右) (左の少年は従者の三谷国松)

文久3年(1863) 5月長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。
6月に晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による騎兵隊を結成する。
文久4年(1864) 8月には4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されると、晋作は和議交渉を任される。そのとき晋作は24歳 。
慶応2年(1866)、海軍総督として戦闘の指揮を執り奇兵隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させ幕府の権威を大きく失墜させ、翌慶応3年(1864年)の大政奉還へとつながることとなった。 その後、下関市で肺結核の療養中、慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去、享年29(満27歳8ケ月)。